第1部 −街の歴史と名の由来−
[縄文・弥生時代 −アサリや蛤のすみか− ]
宮古周辺の丘陵には、崎山遺跡や近内中村遺跡など、縄文・弥生の遺跡は数多くあるが、末広町をはじめ中心市街地はその殆どが現在よりも深く入り込んだ宮古湾の入り江の中で、アサリや蛤の住処であった。
[鎌倉・室町時代 −河口の砂州− ]
中世になると、閉伊川沿いの花輪や千徳などの小高い山に城柵を築く豪族が現れ、横山八幡のお宮も創建されたが、末広町一帯は山口川と閉伊川が交わる河口の砂州であった。
[江戸時代 −葦や茅の生い茂る湿地− ]
今の小沢や沢田横町地区の山沿いに自然発生的に住居が立ち並び、また南部藩の代官所が置かれたことから、宮古(旧町内をさす)は、花輪千徳に代わる閉伊地方の中心地となった。
宮古は慶長16年(1611年)の大津波により壊滅的な被害を受けたが、翌年復興の視察に訪れた南部藩主が、今の本町を中心に町割り(現在の都市計画)をつくり《宮古の街の起源》、その後横町・新町・向町・田町などの街並みが出来た。なお江戸後期の記録によると宮古の軒数は166、鍬ケ崎は242とあるので、往時は鍬ケ崎が江戸松前間の海上交通の要衛として宮古を上回る賑わいがあったことが伺える。 しかし末広町等の商店街一帯は、まだ人家はなく田圃と葦茅の生い茂る湿地であった。
[明治時代 −まだ田圃のど真ん中− ]
明治となり代官所の代わりに郡役所が置かれ、宮古は下閉伊郡の中心として益々繁栄をしていった。明治22年には町制が施行され人口5,192人の宮古町となった(鍬ケ崎町は3,635人)。 一方末広町は、道といえばあぜ道しかない一面田圃の中でまだ深い眠りにあった。 なお当時は郡役所、町役場、裁判所、警察署、郵便局といった主要な行政機関は、全て今の市役所より東の地区(旧舘、愛宕)にあり、商いの中心は本町、新町地区であった。
[大正時代 −町が産声を上げた− ]
そして大正に入り、同13年に宮古町(当時の人口9,193人)と鍬ケ崎町(5,387人)との合町が実現し、宮古は名実ともに下閉伊郡の拠点として栄える基礎が築かれた(因みに、山口村・千徳村・磯鶏村と合併して市制が施行されたのは、さらに時代が下った昭和16年)。
さて我らの末広町が生まれたのはちょうどその頃のことで、大正9年に着工した国鉄山田線(開通は昭和9年)の駅が現在地に設定されたのを受けて、それまで幾久屋町(現在の大通一丁目、カネボウ付近)で止まっていた道路を地主達が土地を提供して造り、大正14年頃に駅を経由して舘合まで開通したのが契機である(なお現在の市道末広町通りの土地はその子孫個人名義のまま)。
瞬く間に道路沿いの田圃が埋め立てられ、今の花の木通り等の肋骨道路も作られ、街並みが形成されていった。角川の日本地名辞典には「大正15年、一面の田圃、湿地を埋め立てて末広町として設定した」とある。また郷土史家の花坂蔵之助氏はさらに細かく「末広町と名付けられたのは、大正15年5月から11月までの間」と推定している。
いずれにしても大正15年(1926年、因みに昭和はこの年の12月から始まる)に、昭和の時代とほぼ同時に産声を上げたこの町に、当時の地主達が集まって、町勢が末広がりに栄えることを願って、「末広町」と名付けたのは間違いないところであろう。
[昭和/戦前 −瞬く間に県内でも有数の商店街− ]
その後、昭和2年の宮古港重要港湾指定とそれに続く港湾整備、待望の昭和9年の国鉄山田線の開通、そして昭和11年の田老鉱山開業に始まり、ラサ工業・大同鉄鋼(後の日本電工)・岩手窯業(日立浜、今はない)といった大工場の進出が相次ぎ、宮古は北日本有数の臨海工業都市として一層の発展を遂げた。
こうして宮古全体は好景気に沸き、その波に上手く乗ったのが新興商店街である末広町であった。盛岡をはじめ県内各地はおろか富山・山梨・福島他の県外からも進取の気概に満ちた先達が続々と末広町に乗り込んで来て、瞬く間に県内でも有数の商店街を作り上げたのである。
先の郷土史家の花坂蔵之助氏は、これを捉えて「末広町は一朝にしてできた町」と表現している。正に言い得て妙、そのとおり末広町は大正末期から昭和初期にかけてのわずか十数年足らずの間に、田圃の中から忽然と出現した街なのである。
しかし昭和デモクラシーの時代から、日華事変・太平洋戦争と続く軍歌の鳴り響く時代へと移り、店頭から商品が姿を消し商業活動はままならなくなっていった。後年末広町の近代化の大きな障壁となった幅員20mの軍用道路計画が作られたのは昭和17年である。
[昭和/20年〜30年代 −戦後の地域経済を支える− ]
宮古は藤原地区を除き大きな戦災を蒙らずに終戦を迎えたものの、人心にもたらした戦争の傷跡は大きかった。しかし昭和22年頃には、戦争引揚者救済として末広町中屋家が提供した土地(現プラザカワトク)に数十店も軒を連ねたマーケットが生まれ、当時の宮古で最も活況を呈した所となった。
だがまだ戦争の傷が癒えぬ昭和23年9月、前年のカサリン台風に続く超大型のアイオン台風により閉伊川がまたもや氾濫し宮古の市街地は濁流に飲み込まれ、正に壊滅的な打撃を受けた。そして内陸との唯一の交通手段ともいえる国鉄山田線は各所で寸断され、同29年まで不通となり、その間宮古は陸の孤島と化した。
しかし、こうした度重なる災害にも拘わらず末広町は不死鳥の如く蘇り、昭和25年には「すずらん燈」を町内各所に設置して町に希望の明かりを灯し、さらには昭和30年からは七夕祭りを行い町に活気を呼び戻した。
[昭和/40〜60年代 −高度経済成長時の繁栄そして低迷− ]
さらに時代は進み、日本全体が高度経済成長の波に乗る中、我が末広町も負けず劣らずに繁栄を続け、一番商店街として地域の経済を支えた。なお全長400mの長い通りの中で「一番街」「駅前マーケット」等の名称で組織をつくり互いに競い合ってきたが、昭和30年代後半に「末広町振興会」として町内の組織を一本化した。なおわが町が正式に「八幡沖」から「末広町」に町名変更になったのは、昭和40年7月1日のことである。
また単なる買い物のみならず市民にも潤いを提供しようと、独自の祭り(末広町フライ旗祭り/昭和50年〜)や歩行者天国などを開催し、市や市民のイベントに積極的に協力し、街には人が溢れ賑わった。
昭和59年に沿岸住民の悲願であった三陸鉄道が開通した結果、商圏は広がりを見せた。しかし当時日本中を吹き荒れたバブルの嵐は何ら関係なく通り過ぎたものの、大型店やロードサイド店への顧客流出は年々増加し、平成3年の県立宮古病院の移転により来街者は激減し、商店街の衰退が顕著となった。
<以上、平成9年新年会(1/23)配布資料>
第2部 商店街振興組合創立と商店街近代化活性化への模索
[昭和/50〜60年代]
大正末期に自らの手で街を作り上げた我らが先達は、戦後も自らの手で街路灯を設置し、道路をコンクリート舗装化するなどして街の近代化を進めた。しかし急拵えの商店街は、戦後20年30年を経過して綻びが見え始め、歩車道の区分すらない狭い道路は商店街の発展の妨げとなったが、都市計画事業は何ら動きのないままであった。
そこで昭和50年11月10日に、任意組織の「末広町振興会」を法人化して、「宮古市末広町商店街振興組合」を設立し、新しい時代の波に対応した商店街の近代化をめざした。
また昭和56年振興組合の総会において都市計画道路の幅員を20mから16mに縮小する案が決議され、早速市議会において陳情採択された。その後昭和60年には国の助成を受けて「沿道環境調査」を行い、翌61年に「商業近代化計画」を策定して商店街近代化へ向かって走り始めたが、同年宮古市が唐突に幅員18m案を提示し、計画は暗礁に乗り上げ、分厚い資料の山ができただけで、全て画餅に帰してしまった。
[平成/元年〜10年]
平成に入り、中心市街地最大の集客施設であった県立宮古病院が郊外の崎山地区に移転した影響で、来街者は激減し、商店街の近代化は待ったなしの状況に至った。
<末広町長期ビジョン作成と特定商業集積整備法に基づく調査>
平成4年、商店街の若手を中心に先進地の視察や勉強会を重ねて、現状の分析と将来のあるべき姿を「末広町長期ビジョン」に纏めて、近代化へ向けて新たな一歩を踏み出した。翌5年には「特定商業集積整備法」に基づく調査を、宮古市が学識経験者や地元関係者を集めて実施し、その結果将来の宮古市の商業集積候補地区は末広町を中心とする既存商店街とする旨を明確に設定した(だがこの報告は何ら活用されることなく、今年法律自体が失効する)。そして同年宮古市はついに懸案の都市計画道路の縮小変更方針を決定した。
<都市計画道路変更決定と再開発準備組合が結成>
平成6年6月宮古市都市計画審議会で幅員を20mから17mに縮小する都市計画道路の計画変更が承認された。50年もの長い間の足枷がようやく消え、宮古市も重い腰を上げて商店街の近代化に着手するのも間もないと我々は希望に沸いた。 また同年、末広町商店街近代化の先導役として再開発準備組合が結成され、念願の核店鋪建設に向けて始動を始めた。(国の補助を受けて調査を行なったが、その後進凍結状態にある)
<地方拠点都市地域の指定と調査、区画整理型の事業手法の提示>
宮古市は平成6年9月に地方拠点都市地域の指定を受けるや、前年の調査結果を活用することなく、また一から調査を始めた。宮古市拠点地区整備計画が我々一般市民に示されたのは2年後の平成8年10月であった。同計画は阪神大震災の教訓で防災を意識した大規模なものとなり、小山田地区や出崎地区の整備計画もこのとき一緒に提案された。
宮古市は翌9年春に末広町地区の説明会を開き、区画整理型の事業手法を示した。その後末広町は市担当者との各ブロック毎の懇談会を開催して事業手法の説明を聞き、次の具体的な計画提示を待った。しかし平成9年夏の市長選以降は協議の場すらなく、事業の全面的な見直しの風聞が聞こえてくるのみであった。(巷間では末広町の反対があったから何も進まなかったというが、実際は市からは何も具体的な計画提示もないままで終止したのである。)
<以上、平成9年新年会(1/23)配布資料>
[平成10年〜平成22年]
〈中心市街地活性化法とタウンマネージメント〉
さらに末広町は商店街独自に専門家を講師に招き、全国に先駆けて「タウンマネージメント」の勉強を重ねた。その後商店街の空洞化対策は国の重要課題として、平成10年に「中心市街地活性化法」が制定され、全国の都市が中心商店街の再生に向けて取り組み始めた。だが宮古市は腰が重く、その前提となる同基本計画を策定したのは平成13年3月で全国379番目であった。
そして平成14年1月に基本計画を受けて、宮古市中小小売商業高度化事業構想(TMO構想)をつくり、それ以後は商工会議所を中心としたTMOと商店街が一体となって、まずは自分達の手でできることからと様々なイベントや共同販促事業に精力的に取り組んだ。
またこの時期に「まちづくり三法」の一つの都市計画法による「都市マスタープラン」づくりが始められたが、結果は中心市街地の整備については具体的な整備時期や事業手法を示すことのないプランが作られ、その期待はまたもや肩透かしとなった。
振り返ると近年の末広町近代化事業はことごとく節目の年に首長選挙が当り、現職が落選を繰り返し、その度にそれまでの積み重ねが水泡に帰すという、悪夢の循環があった。平成6年に都市計画変更決定がなされてからでさえ8年もの無為な歳月が流れ、その間商店街の地盤沈下は深刻化し、今や危機的な状況に至っている。
宮古市は他方面では全国で何番目を誇る迅速さがありながら、なぜ商業・商店街整備となるとこうも遅いのか。郊外には多額の投資を惜しまないのに、中心市街地にはなぜ渋るのか……。
しかし無為無策は決して行政だけでなく、我々商店街関係者も、いくら国の施策とはいえ宮古市が事業主体だからとはいえ、あまりにも受け身であり過ぎた。自分らの街のことならもっと主体的かつ積極的に行動すべきであった。また商店街の問題は宮古市全体の問題と認識するなら、より広範囲の人々に呼び掛け理解と協力を仰ぐべきであった。 無論まだ末広町を含む中心市街地は消滅したわけではない。この状況下ではつい二の足を踏みがちだが、工夫次第でまだまだできる。かけ声だけでない、官民一体・市民一体となった末広町の再生を切に願うのは私一人だけではあるまい。
<平成14年夏/加筆>
〈大型店の撤退と復活、老舗の相次ぐ閉店〉
しかしTMOの奮闘虚しく、中心市街地の衰退は止まることはなく、ついには平成14年9月に市街地唯一の大型店サティが撤退に追い込まれた。閉店は商店街の集客に大きな影響を与えかねないと、当振興組合副理事長吉田久氏を先頭に立ち上がり、吉田氏を始め当商店街のメンバーが役員に就任し、さらに資本参加もして、約1年後の平成15年12月に全国初の地元資本による大型店「キヤトル」の復活を成し遂げた。 だがキヤトルの復活も特効薬には成り得ず、その後振興組合創立当時からの老舗が相次いでシャッターを閉じ、ついに平成17年8月に商店街の玄関に当る駅前の大型店プラザカワトクが撤退して、商店街が一段と寂しさを増した。
〈街再生にかける地元からの提言〉
平成17年10月末広町商店街の呼び掛けで、終日一方通行により路側帯拡幅による歩行スペースの確保を主目的として国土交通省の補助を受けて「社会実験」を官民一体の実行委員会を結成して実施し、併せてTMOによる「市内買い物循環バス運行実験事業」を行なった。そしてこの実験の結果を元に、人が安心して安全に歩ける道路の早期整備を宮古市に要望した。
平成18年2月、国は中心市街地活性化法と都市計画法の改正を決めた。先の「まちづくり三法」による取組みは中心市街地活性化の切り札になり得ず、改めて都市再生の仕組みを再構築したのである。しかし宮古市はこの改正中心市街地活性化法による街づくりの元となる「基本計画」づくりに、当商店街や宮古商工会議所の強い要望にもかかわらず、なぜか着手せず、また末広町が望む安全安心な街路整備も、宮古駅前整備が優先と先送りし、何らのプランも示さないままに時間が経過していった。
この間、辛抱に耐え切れなくなった商店街の仲間は、また一軒また一人と姿を消していった。
<平成18年春、加筆>
〈自助努力と継続 「宮古商人プレミアム商品券」「すえひろ亭」「宮古の秋はうまいぞ!大会」〉
私達は、宮古市からの支援を得ることは諦め、当面の間は独力で創意工夫を凝らして活性化を図るしかないと腹を決め、平成18年に国の支援(少子高齢化対応事業/経産省)を受けて、「すえひろ亭」をチャレンジショップと交流機能を併せ持った施設に改修して、翌年以降は全額自己負担で運営を継続し、今では立派な商店街の賑わい拠点と一つなっている。
またこれまで蓄積してきたノウハウと先進商店街の視察から得た知識を生かしながら、歳末や春の共同販促事業や地場産品を中心とした秋の味覚イベント「宮古の秋はうまいぞ!大会」などの集客イベントを継続して実施してきた。
しかし世界中を超大型の不況の波が襲い、国は経済対策として地域振興券の発行を決め、また全国各地で地域経済の活性化策として「プレミアム商品券」が発行されたが、しかし宮古市では当商店街や商工会議所の要望に対して頑としてプレミアム分の負担を拒んだ。 そこで平成20年春当商店街が企画立案から発行及び精算事務等の全てを負って、プレミアム分は全て自前の「宮古商人プレミアム商品券」を発行し、大成功をおさめた。このような商店街独力独自のプレミアム商品券発行の全国でも例がなく、横浜市商店街連合会を始め各地から問い合わせが相次いだ。
〈地域商店街活性化法に基づき独力で策定した「商店街活性化事業計画」の認定〉
さらに平成21年の3月に、我々のような小さいながらも自助努力を重ねる商店街の大きな助けとなる法律が国会に上程された。いわゆる「地域商店街活性化法」である。
いち早くこの情報を入手し、役員会等で検討を重ね、7月に国会で成立するや否や特別委員会を結成して皆でプランを寄せ合い、9月には正に独力独自の構想の「末広町商店街活性化基本計画」を策定し、国に申請したところ、全国19商店街の一つとして第1号の認定を受けるに至った。なお当商店街のように全て自力で計画を策定したところはなく、その努力を称賛された。
無論計画認定はスタートに過ぎす、計画認定の恩恵で国の厚い支援(活力向上支援事業/経産省/3分の2補助)を受けて、平成22年正月に、空き店舗を改修した多目的交流施設「りあす亭」をオープンさせ、落語会や様々な展示会・イベント等を開催し、また老朽化した街路灯を省エネのLED灯に改修する工事などの各種事業を実施した。
今後この「りあす亭」を活用して、商店街が地域社会の交流核となるような事業を展開する予定である。 これからが本当の正念場、末広町商店街のみならず地域の力を結集し、商店街が地域社会の交流核となるように本事業を進めていかなければならない。
乞うご期待
(平成22年暮、加筆)